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story2 (2010.9.20up)

●二千人物語 

 

神さまは見ていました。

マムが30代の終わりに、自分が一生の間に出会う人は何人ぐらいかと、真剣に数えていたことを。

一時的にでも挨拶を交わし合える関係になる 人との出会い・・

マムは出会いの基準を決めて、数えてみました。

普通に生活している人なら2000人、学校の先生のような特別の職業の人でも5000人くらい。

日本の人口は約1億3000万人、世界は68億9000万人、その中でたった2000人・・ 

マムは、なんて少ないのだろうと思いました。

確率を考えたら、全ての出会いが、奇跡的な価値のある出会いなのだと思い始めました。

一時的にでも自分の人生に関わる2000人との出会いは、偶然ではないのだと思いました。

きっと誰でも、無駄な出会いは一つも無いのに、自分で無駄にしているのかもしれないと思うようになりました。

今までも周りの人をたいせつにして生きてきたつもりでしたが、それは自分の愛と平和周りの人たちへ表わしたかっただけで、他に理由があったからではありませんでした。

マムは40年近く生きて初めて、出会った人をたいせつにして行かなければならない理由を見つけました。

れは、全ての出会いが、意味と価値のある与えられた出会いだから・・

 

マムは、マムの人生の2000人の人が、愛おしくてたまらなくなりました。

どんなに短い時間の出会いでも、その2000人の人たちと笑顔で見つめあったり、心配をしたり、おしゃべりをしたり、解り合ったり・・

マムは、 何か特別なことができなくても、たとえ夢が叶わなくても、自分の意思で、2000人の人を一生懸命たいせつにして生きることが、マムの人生にとっていちばん重要なことかもしれないと思うようになりました。

そしてマムは、まず家族のために、そして次はその外側の人たち、そしてまた次の外側の人たちと、優先すべき人を飛び越えないように生きなければと思いました。

たとえ出会う人が半分になったとしても、優先順位をしっかり守ることが、2000人をたいせつにして生きるという本当の意味なのだと思いました。

たいせつなモノの優先順位・・

マムは25歳の頃を思い出しました。

 

マムは18歳の時に東京の大学に入学しましたが、その時パパから一つだけ条件を出されました。

卒業したら山形に戻ること・・

マムはパパとの約束を守って、大学卒業とともに故郷へ帰りました。

そして山形で写植オペレーターやデザイナーとして働いて、25歳の時に再び東京で暮らし始めました。

マムは少女の頃から、自分と出会う この世でたった一人の人は今頃どこで何をしているのだろうと、胸をいっぱいにしながら遠くの空を見つめていました。

25歳からの東京での生活は、この世でたった一人の人との新しい生活でした。

神さましか知らないことですが、マムはその時こっそり決心をしていました。

18歳の時からの夢は忘れよう・・

マムは、これから自分がたいせつにして生きて行くモノに、心の中で優先順位をつけました。

18歳の時からの夢はオブラートに包まれ、心の中でアヤフヤなモノになり、順位も付けられない存在感だけのモノになりました。

もしかしたら神さまが、そういう特別な方法を用いてその夢だけを別格にし、いつでも何番目にでも入れるようにしたのかもしれません。

 

18歳の時から真剣に書き始め、投稿したり応募したり、小さな賞や記念品をもらったこともありました。

そういうマムのことを知った大学の先生は、マムを連れて学生課に行き、隣りの文芸学科に転科できないかどうかを訊いてくださいました。

その時大学三年だったマムは、大学には別の学科に移るというシステムがあるのだと初めて知り感動しながら、時はすでに遅く、教授の力を以ってしても、一年生以外は転科することができませんでした。

マムは美術学科を卒業して山形に帰り、働きながら詩や文章を書き続けました。

大好きなオネエは、その頃小学校の先生をしていて、もしマムが本気で取り組むなら、自分も一生結婚せずに本気で援助して応援すると、まるでゴッホの弟のようなことを、まじめに考えて言っていました。

マムは、18歳の時から、あるいはもっとずっと前から秘めていた一つだけの夢を、オネエにも内緒で忘れることにしました。

でも半年も経たないうちに、神さまはマムの夢をオブラートから出しました。

この世でたった一人のたいせつな人のために。

 

マムは、同じ姓になっていっしょに暮らし始めた彼が、その五カ月後に会社を辞め絵を描き始めた時、絵本を描くことを薦めました。

神さまは夢を忘れようとしたマムに、いちばんよい方法で、続けるように仕向けたのです。

マムは、彼の絵のイメージに合わせて、お話をたくさん作りました。

絵本とあまり関係のない人生を送ってきた彼に、マムが学生時代から買い集めた色々な絵本を見せて、繰り返しの後にオチを付けるという、一番分かりやすくて作りやすい方法を伝授しました。

マムは絵本の内容の作り方や、その頃活躍していた絵本作家や出版社を教え、印刷会社で覚えた手作り絵本の製本の仕方を教えました。

マムは、大学の授業をさぼって独学で学んできた全てのことを彼に伝えました。

 

マムの中にあった絵本についての知識は二人の物になり、マム一人だけの夢が二人の夢に変わりました。

やがて、マムがお話を作り彼が絵を描いた絵本が、少しずつ出版されるようになりました。

マムは山形のラジオ番組に呼ばれ、二人の絵本作りは、卒業した大学の新聞にも取り上げられました。

『特別に絵本に対して興味を持っていたわけではなかったけれど・・』と、彼は取材に答え言いました。

『彼女と出会っていなかったら、絵本の仕事はしていなかったでしょう・・』

神さまはマムから目を離しませんでした。

これから起こるうれしいことや喜びも、つらいことや悲しみも、25歳のこの時から始まっていました。

 

15年近くが過ぎ、30代の終わりになって、マムは再び優先順位を考えていました。

25歳の時の優先順位は、若さと感情ゆえの主観的なものでしたが、40歳に近いマムの優先順位は、2000人との出会いによる、どちらかと言うと客観的な順位でした。

マムは、家庭をたいせつに守り、この世に四人だけの子どもたちを、明るく正しく一生懸命育てたいと、今までよりももっと強く思いました。

それが、マムの人生の2000人をたいせつに生きる、本当の意味でした。

神さまは知っていました。

マムには、家族を愛すること以上にたいせつなことなどないことを・・

絵本を出版することも新聞に取り上げられることも、ラジオやテレビに出ることも、そのほかの小さな夢や願いも、家族を愛することに比べたら、何の価値も無いものでした。

18歳の頃からの夢なんて、捨ててもあきらめても忘れても、マムは平気でした。

 

神さまはいつもマムから目を離さず、マムを見つめていました。

マムは、自分が絵本を作ることは、もう辞めたほうが良いのではないかと考え始めていました。

それは、家族への愛を全うしたいから・・

絵本作りを辞めることが、なぜ家族のためになるのか、その難しくてつらい理由を知っているのは、神さまだけでした。 

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